昭和58年春、私は念願のゾウを購入しました。経営していた“アリからゾウまで”というキャッチフレーズの動物プロダクションは全盛期で、仕事が忙 しくなるのと同時に様々な動物たちも増えていきました。売れっ子の牛の吉田君はバラエティ番組にレギュラーを持っていたし、器量が良い猫のサチコにはCM のスポンサーの方からお歳暮が届くほどでした。それでも、毎日仕事がある訳ではなく、ほとんどの動物たちは飼育場で1日を過ごしていました。
ある日、私はひらめきました。隣の畑を借り“タレント動物園”を開くことにしたのです。6000u余りをぐるりと白い塀で囲み(実は大工仕事が得意 な私、すべてひとりで作りました)、ラクダや馬やトラ、ペンギンなどを展示しました。入口には小さな箱を置いて、見に来てくれたお客様にお気持ちをいれて もらうことにしました。1円、5円、10円などに混じってたまには千円札もありました。どうぶつのエサとして、にんじんを細く切り袋につめて100円で販 売しました。また、冬にはおでんやお汁粉を作ってお客様に振舞いました。夏はカキ氷です。口コミでたくさんのお客様がみえるようになり、日曜日には20台 ほどしかない駐車場があっという間に満車になってしまいました。まわりの空き地や道路では大渋滞が起こり、近所からのクレームの電話が鳴りつづけたほどで す。
動物園でお金を儲けることを余り意識していませんでしたが、入口の小さな箱は1日に2〜3回開けて回収しないとあふれてしまうほどでした。たくさん の動物をかかえて毎日のやり繰りに苦心していた私にとって毎日の現金収入は本当に助かりました。でも、一番嬉しかったのは、動物たちの顔が日に日に明るく なっていったことです。彼らの孤独を癒してくれたのはお客様が動物に触れて見せてくれる笑顔だったのです。
ぽかぽか陽気のある日、動物園に隣接する我が家の庭でお弁当を食べているお客様がいました。一応プライベートな敷地なのですが、楽しそうな姿を見て 声をかけるのをやめました。よく見ると、我が家の娘と息子がちゃっかり一緒にお昼を頂いていました。なんてアットホームな動物園でしょう。
ラクダに乗れる「ラクダライド」も大好評で、いつかお客様をゾウに乗せたいなぁと、考えるようになったのもこの頃です。動物も人間も生きがいを持つ ことが大切・・・。市原ぞうの国の動物たちが持つホスピタリティは、この小さな動物園がルーツなのです。現在、建設中の勝浦ぞうの楽園も同じようにアット ホームな空間を目指しています。
映画の撮影で2頭の仔ゾウが新たに加わることになり、小さな飼育場が手狭になってきました。田んぼばかりだったご近所にもポツポツ家が建ち始め、新天地を探すことになりました。出来れば東金市に残りたかったのですが「帯に短し、たすきに長し」でなかなか決まりません。
そんな時、市原市でお寺の裏山が売りに出るかもという話を聞いて、早速見に行くことになりました。昭和60年夏のことです。バブル真っ盛り、銀行がお金を貸してくれて、話はすぐにまとまりました。こうして何も無い、木が生い茂っただけの山が私の動物園となったのです。
まずは水の確保。動物を飼うにはたくさんの水が必要です。湧き水がありましたが、井戸を掘ることにしました。美味しい水が湧き出て、一安心。馬小屋と事務所の建設も始まりました。
動物プロダクションの仕事は超多忙になり、何もこんな時期に動物園をやらなくてもいいのに、という周囲の声もありましたが、私はお客様に接する動物達の嬉
しそうな顔を思い浮かべて、セメントをこね、ブロックを積み、チェーンソーを持って頑張りました。もちろん専門の業者の方にもお願いをして工事は進んでい
きました。施設の完成を目指して朝8時から夜9時まで働きっぱなしの毎日でした。当時高校1年生だった長男の哲夢も手にマメを作ってスコップを握っていま
した。オープンの前日、花壇を作り終えたのは夜中の1時でした。
平成元年4月、「山小川ファーム動物クラブ」として、正式に私の動物園がオープンしました。当日は新聞社の取材やテレビの生中継もあって、それらし くテープカットもしました。せっかくの宣伝のチャンスだったのですが、疲れ果てて声が枯れた私はカメラに向かって同じことを繰り返し言って台無しにしてし まい、反省したのを覚えています。
市原市の山奥の小さな動物園…余りお客様は来ませんでしたが、とても充実した日々を過ごしたことを思い出します。広い放牧場で遊ぶラクダや馬たち、 犬たちも新しい犬舎でのびのびしていました。猫と遊べる施設「ネコちゃんふれあいランド」も開園時からありました。園内の食堂は今もある「ウッディヒル」 です。ぞう使いが日本人スタッフと一緒にタイラーメンを作っていました。バーベキューもやりました。完全セルフサービスです。お客様は自ら薪を拾い、火を おこせたら声をかけてもらい、お肉と野菜をお出ししました。煙に巻かれての食事はワイルドで人気がありました。
ゴールデンウィークなどはそこそこお客様がみえて、今日は10万円稼いだ!なんて言ってははしゃいでいましたが、世の中はバブルがはじけて、だんだ んと不景気になっていったのです。動物達の種類と数は右肩上がりに増えていきました。プロダクションの仕事に頼っていては駄目だと、私は不安に駆られまし た。動物たちの生活はどうしても守らなければならない。
動物園を充実させよう。長女が学校を卒業したのを機に、私は当時ブームになりつつあったタイ料理の本格的なお店を始めることにしました。建物はカナ ダからの輸入材でつくり、お皿から家具調度品に至るまでゾウのデザインのものに統一しました。哲夢が修得したタイ語を生かして3人でタイに足を運び、本当 に忙しく働きました。
平成4年4月、リニューアルオープンした私の動物園では、4頭のゾウたちが活躍する「ぞうさんショー」お客様にぞうさんに乗ってもらう「ぞうさんラ イド」が始まりました。日本初、最年少のぞう使い誕生!哲夢には取材が相次ぎ、その宣伝効果でお客様が入口で行列を作るようになったのです。その時、私は 本当に幸せな気分で、「動物園をやってよかった、私のために太陽が出て沈み、月が出る」といった思いで過ごしていたのです。
そんな私に突然、別れが訪れました。これからという時に。
