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2006年01月02日

夢を追いかけて 2<園長のエッセイ>

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 「大人になったら何になりたいか?」
 小学4年生の時、作文の宿題が出ました。女の子が夢見るエアホステス(スチュワーデス)やお嫁さん、いろいろ考えましたが、私の頭に浮かんだのはこれでした。
 「ミスユニバースになって、お金持ちになる!」
 1959年、世界一の美女 ミスユニバースに選ばれた小島明子さんに強い憧れを持っていたのです。その頃の私といえば、そばかすだらけの赤い髪。まわりの人と違う容姿に劣等感を抱いていました。
 数日後、先生が「将来の夢についてすごいことを書いた人がいる」と、私に作文を読ませました。そして私がミスユニバースの夢を語り終えた後、先生は「なれないような人になろうとは思わないように」と注意したのです。あれから45年余り…私はひどく傷ついた当時のことをいまだに根に持っています。
 ミスユニバースにはなれなかったけど、トップモデルになって少しはお金持ちになれましたよ、先生覚えているかしら?

 我が家には犬のマイクと猫のミミに加え、うさぎとカメも飼っていました。カメは道端で拾ってきて、冬はバケツに土を入れて部屋の隅で冬眠もさせました。もちろんペットフードなど無い時代なので草を摘んできたり、八百屋さんにくず野菜をもらいに行ったりと一生懸命育てました。
 猫のミミは器量良しで、恋の季節になると庭にはオス猫たちがどこからともなく集まり、ミミの争奪戦を繰り広げました。ミミはそんなオスたちの姿を窓辺から悠然と見ていました。どの男もタイプじゃないのよ、そう言っているようでした。中学1年生の時、ミミが死にました。隣の家の人が畑で見つけてきてくれたのです。雨上がりの日で、ミミはびっしょりと濡れていました。私にとって初めての動物の死でした。後を追うように、マイクも死んだのです。老衰でした。
 翌年の4月、またひとつの悲しい別れが訪れました。99才になる祖祖母が風邪で1週間寝込んだ後、静かに息を引き取ったのです。今でいう在宅死でした。亡くなる少し前まで、いつもミミがいた縁側で腰ひも(着物を着る時に使うひも)を縫って近所の人に配っていました。学校から帰ると針山に刺さっているたくさんの針に糸を通してあげるのが私の日課でした。
 祖祖母が亡くなった後、落ち込む私を元気づけようと、母は高島屋で行われているある催し物に私を誘いました。そこで私はこの後大きく影響を受けるある動物と出会ったのです。ライオンの子供でした。「世界珍獣即売会」という催し物で、値段は5万円。かわいくて気高いその姿に夢中になり、何度も何度も足を運びました。欲しくて欲しくてたまらなかったのですが、お金も無いし、なにより飼える環境ではないことが分かっていました。これが私と野生動物との初めての出会いでした。

 中学3年生の終わり、私は運命的な出会いをしました。山手教会の日曜学校で知り合った友達から、ぜひ紹介したい人がいると言われて会うことになったのですが、ああいうのを一目ぼれっていうのでしょうか。明けても暮れても彼のことばかり。初めてのデートは野毛山動物園。彼も動物が大好きでした。
 何度かデートを重ねたある日、彼から1匹のシマリスをプレゼントされました。ふたりでデュークと名付けて、一緒に散歩もしたりしました。毎日学校の帰りに大勢の友人を連れて我が家を訪れ、一緒にトランプをしたり、料理をつくったりと楽しい高校生活を過ごしました。
 「ミスユニバースになる」という私の夢はどこかへ行ってしまって、「高校を卒業したら彼のお嫁さんになる」が私の一番の夢となりました。
 しかし、いざ結婚となると話は別です。相手は大きな会社の跡取り息子、彼の両親から猛烈に反対されました。我が家の嫁にはふさわしくない、父親のいない家庭に育った混血の子だからと。運命とは何と残酷なものでしょう。こうして私たちの恋は終わりを告げたのです。
 高校を卒業して、私はファッションモデルになる道を選びました。実らなかった恋への悔しさから、いつか見返してやるという気力が生まれたのです。でも、自ら選んだその道は決して平坦なものではありませんでした。ハーフのモデルはまだ珍しい時代で、最初から仕事に恵まれましたが、それだけでは業界で生き残っていけるばずもありません。私は持ち前の真面目さと熱心さ、そしてなにより美しさでトップモデルへと登りつめたのです。思えば、あの悔しさが無ければモデルの私も今の私も無かったのです。

 目まぐるしい忙しさの中で、小さい頃からの夢であり、また祖母との約束でもあった芝生の庭がある赤い屋根の家を、神奈川県大和市に購入したのは二十歳の時でした。
 そして撮影現場で出会った人気モデルの男性と結婚、長女を授かりました。1970年代に入ると、それまでの家父長制的な家族の形からもっと明るく楽しく、平等的な夫婦や家族の形がもてはやされるようになり、「ニューファミリー」と呼ばれ流行しました。私たちはその代名詞のようなもので、“週末は家族そろって○○デパートへ”などと家族3人で楽しそうに笑う姿が雑誌や新聞の広告に載りました。
 でも、実際の生活は少しずつ歯車が狂っていき、長男 哲夢が1歳半を迎えた頃、私たち夫婦は別々の道を歩むことになったのです。私は子供たちを連れて「シングルマザー」になりました。

 離婚してからも「ジュノン」「主婦と生活」「マダム」など一流雑誌の表紙を飾り続けましたが、年齢を重ねていくことを考えると、何か新しい仕事を見つけなければと思うようになりました。
 ちょうどその頃、アメリカ映画「ドーベルマンギャング」が公開されました。訓練されたドーベルマンを使って銀行強盗をするという、犬たちの華麗な演技が光る映画でした。スクリーンを駆け回る犬たちは生き生きとしているようにも見えました。それというのも、私が出会った撮影に使われる動物たちはスタジオの隅で悲しそうな目をしていたのです。その頃は「動物プロダクション」は存在せず、どこからか集められてきた動物たちに付き添う人間もいませんでした。生き物ではなく、美術のセットの一部として扱われる彼らを少しでも楽しい表情にしてあげたい…。そんな想いが私を次に進む道へと導いてくれたのかも知れません。

                               ELPHA FRIENDS & LEA NEWS 2006新春号に掲載

投稿者 sayuri : 2006年01月02日 10:19